タウンガイド 京都フォトラリー 開催中♪
タウンガイドとすみれ工房のコラボ企画『京都フォトラリー』開催中♪
知っているようで、知らなかった京都!
“京オンナ”こだわりのフォトスポット16選を巡って、撮って、得するフォトラリーにあなたも参加してみませんか?
最後は東山区のスポットをご紹介します。
【東山区】 高山彦九郎 銅像
三条大橋東詰にある高山彦九郎銅像は皆さんご存知だと思いますが、「高山彦九郎」氏についてはなかなか知る機会がないのではないでしょうか??
そこで、東山区のフォトスポットは知っているようで知らなかった高山彦九郎 銅像の前にしました。彦九郎さんは延享4年(1747)5月8日、上野国新田郡(現群馬県太田市)に、彦八正教さんの次男に生まれました。現在、太田市には太田市立高山彦九郎記念館があるそうです。そちらも興味深いですね!!さて、家は名主を勤めた豪農だったそうで、祖先の高山遠江守は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたと言われる人物だそうです。彦九郎を愛し、その教育にあたったのは祖母といわれ、幼少から「太平記」を読ませ、「尊王」こそ先祖への「孝」ときびしく教えたと言われています。このような環境に育ったことが、彦九郎の思想と行動を方向づけた大きな要因であったとされています。彦九郎が18歳の時、志を立てて郷里を出で、京都三条大橋上で皇居を拝し、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだそうです。帰国後六年間家業に従ったのち、皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出ますが、途中、祖母死去のため3年の喪に服したそうです。
生涯を旅に過ごし、京都・江戸・郷里を拠点に全国各地を遊歴、公家・武士(大名・家老・諸藩士など)・学者(国学者・儒学者・蘭学者など)・文化人(画家・歌人・俳人など)・剣術家・神官・商人・農民など様々な階層の人々と交流、その様子を地域の歴史・地誌・習俗・民情などとともに克明な日記に記録しています。第2次世界大戦以前は彦九郎の一側面が強調され、小学校の教科書にも載っていましたが、今は一部の高校日本史教科書に取り上げられているだけで、多くの人から忘れられてしまっているのが現実です。
彦九郎は、27歳から47歳で自刃するまで、21年間にわたる彪大な日記を残しているそうです。
日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)・四国を除くほぼ全国に及んでいます。日記は紀行文を中心に、その土地の里談・自然災害・うちこわし・物価騰貴・飢饉などの社会状況、および外国船来航・蝦夷クナシリの反乱・棄捐令・寛政異学の禁などの政治状流の風聞や、土地柄による忠義・孝行・節婦などの伝聞、さらには多くの知人との交流の種々が記されています。中でも、公家・諸藩士・文人・学者のほか、土地のあらゆる階層の人々との交流関係を持っていることが特筆されます。
彦九郎の旅は情報のネットワークを作り出したことに大きな意義があり、知識人と名もない民衆との情報の伝達媒介者として、知識情報を全国的に拡散・普及させるという大きな役割を果たしました。
現在、私たちは彦九郎の残した日記から、18世紀後半(江戸時代中ごろ)の民俗や社会意識の動向などを知ることができますね。高山彦九郎氏を勉強する上で歴史の教科書をもう一度見直してみるいい機会になりました。
そこで、東山区のフォトスポットは知っているようで知らなかった高山彦九郎 銅像の前にしました。彦九郎さんは延享4年(1747)5月8日、上野国新田郡(現群馬県太田市)に、彦八正教さんの次男に生まれました。現在、太田市には太田市立高山彦九郎記念館があるそうです。そちらも興味深いですね!!さて、家は名主を勤めた豪農だったそうで、祖先の高山遠江守は平氏より出、南北朝時代には新田義貞の「新田十六騎」の一人として高名をはせたと言われる人物だそうです。彦九郎を愛し、その教育にあたったのは祖母といわれ、幼少から「太平記」を読ませ、「尊王」こそ先祖への「孝」ときびしく教えたと言われています。このような環境に育ったことが、彦九郎の思想と行動を方向づけた大きな要因であったとされています。彦九郎が18歳の時、志を立てて郷里を出で、京都三条大橋上で皇居を拝し、「草莽の臣高山彦九郎」と名乗って号泣し、中川規斎に認められて2年間京都に滞留、この間皆川淇圃ら多くの学者に学んだそうです。帰国後六年間家業に従ったのち、皇権復活と復古神道宣揚を求めて関東、東海、北越の旅に出ますが、途中、祖母死去のため3年の喪に服したそうです。
生涯を旅に過ごし、京都・江戸・郷里を拠点に全国各地を遊歴、公家・武士(大名・家老・諸藩士など)・学者(国学者・儒学者・蘭学者など)・文化人(画家・歌人・俳人など)・剣術家・神官・商人・農民など様々な階層の人々と交流、その様子を地域の歴史・地誌・習俗・民情などとともに克明な日記に記録しています。第2次世界大戦以前は彦九郎の一側面が強調され、小学校の教科書にも載っていましたが、今は一部の高校日本史教科書に取り上げられているだけで、多くの人から忘れられてしまっているのが現実です。
彦九郎は、27歳から47歳で自刃するまで、21年間にわたる彪大な日記を残しているそうです。
日記に記された旅先は、蝦夷地(北海道)・四国を除くほぼ全国に及んでいます。日記は紀行文を中心に、その土地の里談・自然災害・うちこわし・物価騰貴・飢饉などの社会状況、および外国船来航・蝦夷クナシリの反乱・棄捐令・寛政異学の禁などの政治状流の風聞や、土地柄による忠義・孝行・節婦などの伝聞、さらには多くの知人との交流の種々が記されています。中でも、公家・諸藩士・文人・学者のほか、土地のあらゆる階層の人々との交流関係を持っていることが特筆されます。
彦九郎の旅は情報のネットワークを作り出したことに大きな意義があり、知識人と名もない民衆との情報の伝達媒介者として、知識情報を全国的に拡散・普及させるという大きな役割を果たしました。
現在、私たちは彦九郎の残した日記から、18世紀後半(江戸時代中ごろ)の民俗や社会意識の動向などを知ることができますね。高山彦九郎氏を勉強する上で歴史の教科書をもう一度見直してみるいい機会になりました。
【 高山彦九郎 銅像 】
行き方
京阪電車「三条京阪」
行き方
京阪電車「三条京阪」
【東山区】 祇園 巽橋
旅行者の方も四条からブラっと歩いて行ける「京都といえばこういう風景が見たかった!!」というスポットです。京風町家特有の紅殻格子に駒寄せ、二階窓の簾も粋なお茶屋さんが石畳を挟んで建ち並んで、角に立つ辰巳大明神は奥ゆかしい情緒を醸し出しており、美しい流れの白川や石畳とも調和して、祇園の芸能や生活や文化にふさわしい洗練された景観を今に伝えています。
ここでは一つ昔から伝わっているお話をしましょう。「 巽橋 」の下の川を「 白川 」が流れています、その昔、この「 巽橋 」に一匹の「 狸 」が住みついていたそうで、この狸は人を化かしては白川に落としたりと、いたずらを繰り返していたそうです。勿論「 芸妓さんや舞妓さん 」もその被害に遭っていたそうで、困り果てた祇園の人達は「 辰巳神社に、この狸を祀ってしまおう!」ということになり「 祠 」を建てました、すると不思議な事に、いたずら狸を祭神にするとパッタリといたずらが無くなったそうです。以来「 辰己神社 」は、別名、辰巳大明神・辰巳稲荷・祇園のお稲荷さん。などと呼ばれ今日まで地元の方々に親しまれているそうです。そんな巽橋へ是非訪れてみてくださいね。
ここでは一つ昔から伝わっているお話をしましょう。「 巽橋 」の下の川を「 白川 」が流れています、その昔、この「 巽橋 」に一匹の「 狸 」が住みついていたそうで、この狸は人を化かしては白川に落としたりと、いたずらを繰り返していたそうです。勿論「 芸妓さんや舞妓さん 」もその被害に遭っていたそうで、困り果てた祇園の人達は「 辰巳神社に、この狸を祀ってしまおう!」ということになり「 祠 」を建てました、すると不思議な事に、いたずら狸を祭神にするとパッタリといたずらが無くなったそうです。以来「 辰己神社 」は、別名、辰巳大明神・辰巳稲荷・祇園のお稲荷さん。などと呼ばれ今日まで地元の方々に親しまれているそうです。そんな巽橋へ是非訪れてみてくださいね。
【 祇園 巽橋 】
行き方
京阪電車「祇園四条」約5分
阪急電車「河原町」約7分
行き方
京阪電車「祇園四条」約5分
阪急電車「河原町」約7分
【東山区】 八坂庚申堂
京都・東山をぶらりと散策してみると、色鮮やかで変わった形のお守りが境内にたくさん奉納されているお寺があります。八坂庚申堂(正式名称「大黒山延命院金剛寺」)は、地元の方から「八坂の庚申さん」の愛称で親しまれ、年に6回の「庚申待ち」と呼ばれる行事が行われます。庚申待ちとは
中国の道教由来である庚申信仰の霊場として古くからまつられてきた庚申さん。庚申とは干支の「庚(かのえ)」「申(さる)」の日のことだそうで、道教によると人間の体の中には三尸(さんし)という虫がいて、庚申日の夜に寝ている人間の体を抜け出しては、天帝にその人間の悪行を告げ口し、寿命を縮めると信じられていたそうです。。そこで人々は長生きを願い、夜通し起きることで三尸が体から出て行くのを防ぎ、寿命が縮まないよう身を慎んだといわれています。これが日本に伝わって習慣となり、「庚申待ち」と呼ばれ、人々は様々な行事をして夜を明かしたそうです。
ここ八坂の庚申さんは日本三大庚申のひとつで、日本最古の庚申堂でもあります。本尊には「青面金剛(しょうめんこんごう)」が安置されており、青面金剛は飛鳥時代、京都の豪族である秦氏(はたし)の守り神として中国大陸から招来されまつられたそうです。しかし今から約1000年前の平安時代に、八坂庚申堂の開祖である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が一般の人も青面金剛にお参りできるようにと、960(天徳4)年に八坂庚申堂を創建し、以後、日本最初の庚申信仰として信仰を集めるようになったということです。
この「青面金剛」は、庚申日に体内から出てきた三尸の虫を食べるといわれ、あつく信仰されてきました。今でも庚申日の晩になると「青面金剛」を拝む人がたくさんやってきます。また、一晩一心に拝むことで、どんな願いごとも叶うといわれています。皆さんもお願い事を聞いてもらいに庚申さんにいってみませんか?
中国の道教由来である庚申信仰の霊場として古くからまつられてきた庚申さん。庚申とは干支の「庚(かのえ)」「申(さる)」の日のことだそうで、道教によると人間の体の中には三尸(さんし)という虫がいて、庚申日の夜に寝ている人間の体を抜け出しては、天帝にその人間の悪行を告げ口し、寿命を縮めると信じられていたそうです。。そこで人々は長生きを願い、夜通し起きることで三尸が体から出て行くのを防ぎ、寿命が縮まないよう身を慎んだといわれています。これが日本に伝わって習慣となり、「庚申待ち」と呼ばれ、人々は様々な行事をして夜を明かしたそうです。
ここ八坂の庚申さんは日本三大庚申のひとつで、日本最古の庚申堂でもあります。本尊には「青面金剛(しょうめんこんごう)」が安置されており、青面金剛は飛鳥時代、京都の豪族である秦氏(はたし)の守り神として中国大陸から招来されまつられたそうです。しかし今から約1000年前の平安時代に、八坂庚申堂の開祖である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が一般の人も青面金剛にお参りできるようにと、960(天徳4)年に八坂庚申堂を創建し、以後、日本最初の庚申信仰として信仰を集めるようになったということです。
この「青面金剛」は、庚申日に体内から出てきた三尸の虫を食べるといわれ、あつく信仰されてきました。今でも庚申日の晩になると「青面金剛」を拝む人がたくさんやってきます。また、一晩一心に拝むことで、どんな願いごとも叶うといわれています。皆さんもお願い事を聞いてもらいに庚申さんにいってみませんか?
【 八坂庚申堂 】
行き方
京都市バス「清水道」下車。 五重塔(八坂の塔)を目印に、赤いくくり猿が吊るされた塔ノ下商店街を登ればスグです。
行き方
京都市バス「清水道」下車。 五重塔(八坂の塔)を目印に、赤いくくり猿が吊るされた塔ノ下商店街を登ればスグです。